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大阪高等裁判所 昭和26年(う)1094号 判決

控訴人 被告人 加藤博史

弁護人 山本治雄

検察官 折田信長関与

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一年に処する。

本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

原審の訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴理由は末尾添付の控訴趣意書の通りである。

第一点について。

弁護人は、昭和二十五年政令第三百二十五号は憲法に適合しない無効の法令であると主張する。

しかし、所論の政令は昭和二十年九月二十日勅令第五百四十二号「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件」に基いて制定されたものであるが、右勅令は旧憲法第八条に基いて発せられたいわゆる緊急勅令であつて次期の第八十九臨時議会に提出されその承諾を得たので、その後は旧憲法上実質的にも形式的にも法律と同一の効力を有することとなつたのである。そして旧憲法上の法律はその内容が新憲法の条規と牴触しない限り新憲法の施行と同時にその効力を失うものではなくなお法律としての効力を有するものであることは新憲法第九十八条の規定によつて窺われるところであり、右緊急勅令は勿論之に基く昭和二十五年政令第三百二十五号占領目的阻害行為処罰令もわが国がボツダム宣言を受諾して降伏文書の定める降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる連合国最高司令官の発する指令を履行するに必要な措置として制定されたものであつて、降伏条項の誠実な実施は降伏文書に基く法律上の義務の履行であるから新憲法の条規に反するところはなくその効力は妨げられないのである。従つて本件政令を無効のものであると主張する論旨は採用することができない。

第二点について。

弁護人は、原判決は被告人が原判示の文書の記載内容を知りながらこれを所持していたとの事実を認定し、右事実は一九四五年「言論及ビ新聞ノ自由」に関する覚書第三項の「連合国ニ対スル破壞的批評ヲ論議」したものに該当するとしてこれを適用処断しているのであるが、かような広い論議の解釈を支持する根拠がないし所持という事実は論議行為の予備の段階にすぎないから論議行為の既遂のみを処罰している右第三項の論議に該当しない。従つてこれを適用した原判決は論議の解釈を誤つたものであると主張する。

しかし、原判決の確定するところは被告人は原判示路上において頒布の目的で原判示の新聞二百二枚、小册子五部をいずれもその記載内容を知りながら所持し以つて連合国に対する破壞的批判を論議したというのである。しかして、一九四五年「言論及ビ新聞ノ自由」に関する覚書第三項の論議の意義が極めて広い意味に解釈され、連合国に対する破壞的批評を多数の者に流布する意図をもつてそのような批評を掲載した印刷物を大量に所持しているような場合も含まれるものであることは、原判決がその理由後段において弁護人の主張排斥理由に説示している通りであるから、被告人の行為が右第三項違反に該当すること勿論であつて原判示には所論のような解釈上の誤はない。

弁護人は論議という用語の意義を極めて素朴的に解して、対話者の間において互に主張、反駁することのみを指すものであるかの如くに主張するのであるが、文化の進歩した今日においては思想表現の方法は極めて複雑になつており、之に応じて論議という用語の解釈も合理的に定められなければならない問題である。思うに一九四五年の「言論及ビ新聞ノ自由」に関する覚書は連合国管理下におけるわが国民の思想表現の自由を保障すると共に占領目的阻害行為に該当するような思想の表現及び流布を禁止する趣旨に出たものであることはその内容自体によつて明瞭に理解することができるのである。従つて右覚書第三項において「連合国ニ対スル破壞的批評ハ之ヲ論議スルコトヲ得ズ」と規定しているのも、わが国民の間に連合国に対する破壞的批評が流布されることを禁止しようとするものであることが覚書の主旨であること極めて明らかである。以上の観点に立つてこの論議の意義について考えてみるに、新聞その他の印刷物に掲載せられた批評は之を他人の閲覽に供したり、掲示したり、或は頒布する等の方法によつて発表又は流布されるのであるから、さような発表又は流布を直接の目的とする行為は論議に該当するものといわねばならない。蓋し、印刷物による思想表現の場合は当該印刷物を作成し、之を他人の認識に供すること自体がその思想の内容たる事項を論じていることになるのであつて、必ずしも現実に他人が該印刷物を了知することを必要としないと解するのが相当であるからである。従つて印刷物の所持であつても、その所持が当該印刷物に表現せられている思想を流布することを目的としているものである以上、之を右覚書にいわゆる論議に当ると解すべきである。もつとも、一般の新聞配達人や街頭における新聞売子の如きは思想の流布を直接の目的としているものでなくて、新聞を運搬し又は売却してその対価を取得することを目的として所持するものであるから、さような者がたまたま本件覚書第三項に該当する記事の掲載せられている新聞紙を所持していたとしても、常に処罰せられるとは限らないこと勿論である。要は当該の所持が印刷物の内容たる思想を流布するを目的としているかどうかによつて判定せらるべき問題である。特定の政党のために奉仕している者が、当該政党の機関紙を頒布するために所持しているような場合は右の設例と違つて、その機関紙に表現せられている思想を流布宣伝することを目的としているものと解すべきことは実験則上明白な事項である。しかるに、本件被告人は本件文書の内容を知りながらこれを頒布する目的で所持していたことは原判決挙示の証拠で明瞭であるから、被告人は連合国に対する破壞的批評を論議したものであると言わなければならない。論旨は採用することができない。

第三点について。

弁護人は、原判決は被告人が原判示文書をいずれもその記載内容を知りながら頒布の目的で所持していた事実を認定したが事実の誤認であると主張する。

しかし、被告人は原審第一回公判で原判示文書の記載内容を知りながらこれを所持運搬した事実を自供しているし、被告人が所持運搬した文書は新聞二百二枚小册子五部であるから、かような相当量の文書を所持運搬した事実によつて被告人がこれを頒布する目的を有していたことを推認するに充分である。原判決には少しも事実の誤認はない。なお弁護人は、原判決が被告人の当公廷の供述態度を証拠に掲げたことを非難しているが、これは被告人の原審公廷における供述及び態度の意味であつて、原判決が特に被告人の当公廷の態度を証拠に掲げたのは原審第一回公判調書で明らかなように自己の氏名すら黙否している被告人が前記事実を自供したことは特にその態度から信用性の高いことを証明し得られるからである。又弁護人は、証人道好一一の証言によれば本件文書は新聞紙と包装紙で二重に固く糊付けしてあつてその上に荷造り用の紐でくゝつてあつたというのであるから被告人が中味を知る筈がないと主張するけれども、かような事実によつて直ちに被告人が中味を知る筈がないと結論するわけにいかない。われわれの日常の経験から言えば新聞紙などをかように厳重に密封すること自体が既に特殊の事情の介在を意味しているし、被告人は原判決確定のように単純な機械的労務者ではなく特定の政党の事務員であり、且つ頒布の目的でこれを運搬していたのである。単に密封の一事によつて中味を知る筈がないというのは弁護人の独断にすぎないことは原審公判における被告人の自供の存することによつて明らかである。

第四点について。

弁護人は、原判決は被告人が連合国に対する破壊的批評を論議したと認め、右覚書第三項を適用したけれども、同項の連合国に対する破壊的批評の対象は個人を指すものではない。しかるに原判決(一)乃至(四)は米帝国主義者個人に対するものでアメリカに対するものではない。従つてたとえ右文書の記載内容が破壊的批評であつても、右第三項の適用がないと主張する。しかし右覚書第三項の破壊的批評の対象が連合国であつて連合国人個人でないことは所論の通りであるけれども、或批評が連合国人個人に対してなされたか或は連合国そのものに対してなされたかは単に用語の末節のみに拘泥して解決せらるべきものではなく、当該文言を使用して表示せられた文章全体を通じその内容によつて判定すべきものである。なるほど原判示(一)乃至(四)の文書は「米帝」又は「米帝国主義者」と表示してアメリカ合衆国を表示していないことは所論の通りであるが、その全文を通読すれば右は連合国の占領政策に対し破壊的批評を加えたものであることが明らかである。従つて原判示の文書(一)乃至(四)に対し所論の覚書第三項を適用した原審の措置は正当である。論旨は一種の詭弁にすぎない。

第五点について。

弁護人は、原審の科刑は不当であると主張するので、所論を考慮に入れて記録に現われた諸般の情状を考察してみると、原審が被告人に対して執行猶予の言渡をしなかつたのは不当であると考えられるから、原判決を破棄し、且つ直ちに判決できるものと認め刑事訴訟法第三百九十七条第四百条但書を適用して次の通り判決する。

原判決確定の事実を原判決挙示の証拠によつて認め、これに昭和二十五年政令第三百二十五号占領目的阻害行為処罰令第一条第二条第一項一九四五年「言論及ビ新聞ノ自由」に関する覚書第三項刑法第五十四条第一項前段第十条を適用し、所定刑中懲役刑を選択して被告人を主文の刑に処し、情状に因り刑法第二十五条を適用して三年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用の負担については刑事訴訟法第百八十一条第一項を適用する。

(裁判長判事 斎藤朔郎 判事 松本圭三 判事 網田覚一)

弁護人山本治雄の控訴趣意

第一点昭和二十五年政令三二五号は、憲法に適合しない無効の法令であるから、これを適用した一審判決は破棄を免れない。

第二点一審判決は、その理由中(一)乃至(六)摘示の各文書を被告人が孰れもその記載内容を知りながら所持していたと認定して、この所持を以て判決摘示の覚書第三項に所謂「論議」したと解釈しているが、その解釈を誤つているから、破棄を免れない。

一、被告人が右各文書の記載内容を知つていたとする一審判決の認定が誤つていることについては別項に述べる。ここでは、この認定は一応問題の外におく。仮りに被告人が右の内容を知つていたとして、且つ他人に頒布する意図をもつていたとしても、所持が果して右覚書第三項に所謂「論議」したというような解釈が可能であるか結論を先にいうなら右の所謂「論議 discuss」が、そんなに広範な意味をもたされるものと解釈するのは甚だしい誤解、曲解である。どこの国の法解釈学もかかる解釈を支持しないだろう。

如何なる権力も思惟を強制することはできない。奴隷の法解釈はもはや法解釈というに値しない。一審判決の示した右のような解釈は我国裁判史上に恥ずべき汚点を印したものと言うべきである。

二、右覚書三項に「……の事項は論議することができない」とある、明らかに論議行為の既遂を禁じたものでつて、それ以前の行為の段階である未遂や予備を対象としていないことは、論議をまつまでもなく、当然のことと解する。どこから一審判決のような解釈が出てくるのであろうか、理解できない。

三、政令三二五号は、占領目的阻害行為を処罰する法令であるが行為の既遂を対象とすることは明らかであつて、未遂や予備をも処罰する特別の規定を設けていないのである。一審判決の解釈は、この政令があたかもこのような特別の規定を設けているのと少しも変らない効果を実現せんとするもので、問題は余りにも重大である。

四、本件被告の一審判決の判示の「所持」は頒布の意図があつたとしても、覚書に所謂「論議行為」のいわば高々予備の段階にあるもので、未遂とも程遠いとするのが正しい法解釈である。

第三点一審判決は、事実の認定を誤つており、且つこの誤りは判決に影響することが明らかであるから、破棄を免れない。

一、一審判決も、流石に、所持そのものが論議だとわ言わない。判決摘示の文書を「孰れもその記載内容を知りながら所持し」と言い証拠証明中には「判示各文書を内容を知りながら、頒布の目的で所持していた事実……」と述べている。だからこゝで問題となるのは、被告人が果して判示各文書の記載内容を知つていたか、及び頒布の目的があつたかの二つである。

二、一審判決は、「被告人が判示各文書を内容を知りながら、頒布の目的で所持していたとの事実は、一、証人古川、同道好、同佐藤の当公判における供述、二、司法巡査の現行犯人逮捕手続書及び捜索差押調書、押収目録、三、押収に係るあぶり出し手紙(証九号)及び被告人の当公廷における供述態度を綜合して認める」というて検察官によつて提出された殆んど全証拠を引用し、なお足らないとみえて被告人の供述態度までをも加勢させている。弁護人は、この綜合判断は、常識背反も甚だしい危険な独断であつて、就中判示の各文書の内容を、被告人が、知つていたとする点は特にひどいと考える。

三、先ず、最も重要な証人道好一一は「新聞紙と包装紙で二重に固く糊付けしてあつてその上に荷造り用の紐でくつてあつた六個の包を押収して、これを破つて開けて中味を点検したが、六個の包の形で検察庁へ引継いだ」旨明細に供述している。

この証言は、被告人が果して包の中味を知つていたか否か、従つて判示の各文書の記載内容を知つていたか否かの判断に決定的な重量感がある。即ち、証言の価値は、他にこれをくつがえすほどの強力な証拠(例えば、この各包の梱包を被告人がしたとか、或はこれと同価値ある反証)がない限り、被告人が内容を知らないとずる常識的判断を肯定するのに決定的である。検察官によつて採用された全証拠、証人の証言のどの部分を、被告人不利益にどのように引用綜合してみても、この常識判断の正当性を否定するには足らない。できることは、たかが「どうも怪しい」という一応の疑をさしはさむ程度である。被告人が司法巡査より職務質問をうけた際に、「カバンの中味は私のもので学用品だ」と答えたとか、呈示を求められてこれを拒んだとか、派出所附近で逃走を企てたとか、喫茶店で怪しい男と会つたとか、その他何とかかとか(一審立会検察官の意見)をどのように集成してみてもすべて徒労に終るであろう。たゞどうも怪しいというだけでは飛躍的な判断はあくまでも許されない。一審判決が、この無理に気付いてか、被告人の供述態度なるものの加勢によつて、不可能な飛躍を敢てしたのは神業に近い。

四、次に、被告人が果して、これらの梱包を他人に渡す目的で所持していたか否かの点については、恐らく他人に手渡す意図があつたものと推測するのが常識であろう。弁護人も、これをしも、あくまで否定するほどに没常識ではない。しかし問題二つのうち本件に重要なのは被告人が梱包の中味の各文書の内容を知つていたか否かであつて、これを知らずに単に他人に手交する意図で所持していたからとて、何の価値判断も出て来ない。

五、少し考察に価すると思われるのは、開封ずみの封筒中に「平和と独立」(公訴事実第一の(四)該当文書であるかは疑問)と「先鋒」(同第一の(一)か(二)のいずれに該当するかは全く不明のもの)の各一部を被告人が所持していた事実である。道好証人の供述には、単に「先鋒」と題し「平和と独立」と題する文書各一通があつたというだけで、特定もせず、それ以上のことは何も分らないのであるから開封された封筒中にあつたということは、被告人が少くともこれだけの文書についてはその内容を知つている筈だとの判断を助けるものであろうけれども、結局何にもならない。

六、以上のように、一審判決が被告人が梱包の中味を、従つて判示の各文書の内容を知つていたとする判断は到底これを是認するわけにはいかない。この判断を支持する証拠はない。事実の誤認である。公訴事実第一点も第二点とともに犯罪の証明がないから無罪に帰着する。

第四点一審判決は言論及び新聞の自由に関する覚書三項の解釈を誤つて適用しているから、破棄を免れない。

一、右覚書三項には「連合国に対する破壊的批判を論議することはできない」とある。破壊的批判の対象は連合国全体或はその一国でありうるけれども、それは、あくまでも国そのものであつて、その国家に属する個人を指すものでないことは文字解釈からして明らかである。公訴事実第一のうち「アメリカ」という国を表示したものは、わずかに(五)と(六)の二つでしかない。他はすべて、米帝国主義者、または、これを短縮して「米帝」とする表示であるアメリカン、インピリヤリストは、ユナイテツド、ステーツとは別物である。「朕は国家」と謳つたルイ十四世の独断が許されたのは数世紀むかしのことで、二十世紀の今日民主主義国家では通用しないであろう。公訴事実第一の(一)から(四)までは各文書の記載内容が破壊的批判であろうともそれは、米帝国主義者に対するもので、アメリカの国に対してなされたものではない。従つて右覚書の三項の適用なく無罪。

第五点一審判決は、刑の量定が不当であるから、破棄を免れない。

一、弁護人の以上控訴理由のすべてが認められないとしても、実刑一年の懲役を言渡した一審判決は量刑において不当である。

二、被告人は中流以上の所謂良家の長男に生れ、旧学制の最高学府を卒えて間もない正義の好青年で、理解ある父の愛情に支持されている。弁護人は、この好青年の将来に大きな期待を寄せつゝも、一たび政党活動を中止するよう勧告を試みたが一審繋属期間中は無駄であつた。一審判決後に感ずるところあつて、郷里の父の膝下に帰つて転職し以来実践活動を絶つて今日に至つている。この事情の変化は、量刑上適当に考慮されて然るべきである。

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